赤坂街歩き

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赤坂氷川神社裏の崖下の家

立松和平氏

創刊号から立松和平氏

赤坂といえば私には必ず思い浮かべるシーンがある。

文久二(1862)年十月。赤坂氷川神社の裏手の崖の下にある勝海舟の屋敷である。当時海舟は海軍奉行並みという役職についていた。

海舟を斬ろうとして二人の若者が玄関に入っていった。刺客の前に海舟は丸腰のままふらりと立ったのだ。まるで警戒するそぶりもない。壮士然としてたちまち刺客に変じようとする若者に、海舟はこういった。
「貴公ら、わしを斬りにきたのか。斬るなら斬るがいいが、その前にわしの話を聞くのも無駄ではあるまい。ついてくるがよい」
そのまま海舟は無防備に背中を向けたのだった。若者たちはその迫力にどぎもを抜かれ、圧倒されてしまった。

若者のとは土佐藩浪士坂本龍馬と、龍馬が寄宿生として剣術を習っていた千葉定吉の倅重太郎であった。海舟は尊攘派を敵視する奸物であるから斬って捨てるという龍馬に、千葉重太郎が助勢することになったのだ。

気力ばかりが先走る無名の若者たちよりも、海舟の方が一枚も二枚も上であった。当時海舟は洋行帰りであり、幕府の要職を占めていた。その日の食にも事欠く脱藩浪士よりも遥かに世情に通じていた。

龍馬と重太郎とを客室に通した海舟は、内外の情勢を詳細に述べはじめた。攘夷ではなく、開国をすべきだと海舟は説く。そのためには何ほさておいても海軍力の充実が先だといったのだ。海舟のはなしが終わるや、龍馬は両手をついて頭を下げた。

「先生、このわしをどうか門下生の列に加えとうせ」

斬って捨てるに値する奸物が、一転して師匠になってしまったのである。後に龍馬は乙女姉への手紙に海舟を「天下無二の軍学者」「日本第一の人物」としたためている。龍馬も身勝手といえばこれにすぎることはない。斬りにいった人物の弟子になってしまったのである。

それにしても海舟は大人物である。激動の時代に天寿をまっとうしたというのも賞賛に値する。

この出会いは日本の歴史にとって大きな意味を持つ。海舟の奔走によって神戸に幕府海軍操練所ができ、大阪にあった海舟の私塾も神戸に移された。その神戸海軍塾の塾頭になったのが龍馬であった。

ところがこの神戸海軍操練所は尊攘派の何人かを抱え込んでいたため、幕府には不逞浪士の巣窟と見なされた。内偵の手が伸びてきたのである。この頃、天狗党の筑波山挙兵や、新撰組による池田屋襲撃事件が起き、幕府が激派弾圧に乗り出してきたのだった。海舟は海軍奉行を罷免されて江戸に召還される。

龍馬には幕府役人による浪人狩りにひっかかる危険がましてきた。そこで海舟の口ききで、龍馬は大阪の薩摩藩邸に身をひそめたのである。薩摩藩も薩英戦争によって海軍が破壊され、その建て直しの力が必要だったのだのである。

やがて龍馬の奔走により、薩長連合が生まれ、歴史が奔流となりはじめるのだ。龍馬は天下の洗濯にとりかかったのである。

過ぎ去ってからはじめてわかるのだが、歴史の縁とは不思議なものだ。赤坂でのあの奇妙な出会いがなかったら、歴史はどうなっていたかわからない。

赤坂氷川神社の家から明治維新が生まれたと、いっていえなくみない。それから百数十年たち赤坂の街も変わったが、今、男たちの稀有な出会いがここてあったのだと、記憶されてもよいであろう。



この記事は「赤坂タウン誌 創刊号(1991年春季号)」に掲載した内容を復刻掲載いたしました。

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