赤坂街歩き

赤坂を歩いて気づいた事感じた事を発信いたします
<< August 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | - | pookmark |
<< 赤坂で3度住居を変えた勝海舟 | main | 赤坂街歩きの会のご案内 >>

赤坂プリンスホテルの閉館に思う

  赤坂のシンボルともいわれた、赤坂グランドプリンスホテルが今年いっぱいで閉館になるという。ここは、日本の歴史を象徴するところとしても記憶の中に残る場所である。江戸時代は紀州徳川家の屋敷であり、大正、昭和初期には日本の植民地となった韓国から人質同然に日本に留学として連れて来られ、日本の軍人として過ごした韓国皇太子李垠の屋敷であった。戦後それを西武が買い取り、赤坂プリンスホテルとして開業、日本の西洋式ホテルの先駆けとして、また、赤坂のホテル街の先駆けとして、赤坂のシンボルになっていた。ここには、軍国主義時代の政略結婚で韓国皇太子に嫁ぎ、韓国のために一生を捧げた日本女性が暮らした場所でもある。詳しくは赤坂タウン誌13号に掲載されているので、ここに再掲載をさせていただく。

現在の赤坂プリンスホテル

 赤坂に暮らした人たち

赤坂ンスホテ

旧館に暮らした  李方子の生きた足跡

 

はじめに

ソウルを旅した人は世界文化遺産にも登録されている昌徳宮楽善斎を訪ねる人も多い。ここは、日本から朝鮮王朝最後の皇太子英親王李垠殿下に嫁いだ、李方子が韓国に帰って、晩年を過ごした場所として、日本人には感慨深い場所である。

 李方子とは、日本と韓国の厳しい関係の時代、政治に翻弄されながら、なおかつそれを受けとめ、李王朝最後の皇太子妃として、祖国のために自分の人生を捧げた女性である。彼女は1930年(昭和5年)から1952年(昭和27年)までの20数年間を赤坂にほど近い、千代田区紀尾井町(現在の赤坂プリンスホテル)で過ごし、そして、その住まいは今でも、プリンスホテルの旧館として、利用されている。この住まいで、彼女は時代や世の中の何を見、何を感じて生きたのであろうか。人生をたどってみると、時代に翻弄されながら懸命に自分の生き方を模索し、自分を貫いた人生のように思うのである。

 

政略結婚の中で

 彼女の元の名は梨本宮方子といい、梨本宮守正親王の第一王女として1901年(明治34年)11月4日麹町で生まれている。母伊都子は鍋島家第19代直大侯爵家の二女であった。宮家の王女として何不自由なく暮らしていた方子であったが、大正5年、方子16歳の夏、自分には何も知らされないまま、韓国皇太子・李王世子との婚約が決まり、新聞の発表で自分の知ることになった。「お国のためでございます」との言葉に軍人であった父梨本宮守正親王は断り切れず、方子には内緒で内諾をしていた。(王世子とは、日韓併合後の韓国皇太子の呼び名である)。

 一方、皇太子英親王李垠殿下は1896年(明治30年)1020日に大韓帝国の国王の第3王子として、生まれた。日ロ戦争1904年(明治37年)勝利後、日本はロシアに代わって大韓帝国の支配権を確立し、日本統監府を置き、初代統監に伊藤博文が就任した。伊藤博文は太子大師(皇太子の主任教師)に任ぜられ、李垠殿下は11歳(明治41年)の時、留学の名の元に人質同然に日本に連れてこられた。その後、日本の皇太子と同等の待遇を約束され、日本で学習院から陸大へと進み、日本の軍人としての道を歩んでいた。二人の間には「いわば、人質のようなお立場で日本にこられたと聞き、いままた政略的なご結婚を余儀なくされておいでのお心うちを思うに付け、殿下も私も同じ犠牲者なのだという親近感のようなものが湧きあがってきました。」と方子は自伝「過ぎた歳月」の中で書いているように政治的な思惑を理解しての結婚であったようである。

 

その時代は

 1910年(明治43年)日本は韓国を併合し、日本の植民地としてしまう。日韓併合後の日韓の関係は日本政府の武断政治に対する反発や結婚前年の殿下の父李太王の葬儀時1919年の独立運動(3・1万歳運動)、1926年の殿下の兄にあたり、朝鮮王朝最後の王純宗の死による、その葬儀時の6・10万歳運動など、厳しさを増し、日本軍人として、日本で生活する垠殿下の心中は複雑なものであった。

 一方、国内では1923年(大正12年)の関東大震災時は朝鮮人の暴動説などがまことしやかに飛び交い、多くの朝鮮人が虐殺されるなど、ますます、日本と朝鮮の民族の溝は深まり、垠殿下はいいようのない悲しみと憤りに苦しみ、その苦悩を胸の内に深く抱えることになっていった。その後も朝鮮教育令改正(1938)や創始改名(1940)と日本の同化政策が強硬に進められ、日韓の関係は厳しさを増していくばかりであった。

 

日本の敗戦と臣籍降下

 1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をする事になり、事態は一変した。GHQは直三宮家を除いて、皇族は臣籍降下し、平民にするという決定をした。二人はこれから先の生活がどうなるのか見えない状態にあったが、それより以上に垠殿下を担ぎ出して、政治的に利用しようとする勢力もあり、複雑な立場に立たされた。

 朝鮮も独立することになり、祖国では李承晩政権が誕生した。しかし、李承晩大統領が垠殿下の帰国をあまり歓迎しない様子に、落胆し帰国を断念、日本で余生を送ることを決心した。この時、すでに垠殿下も50歳を越えていた。その後、64歳の時、息子の玖のいるアメリカで脳血栓で倒れ、一時は小康状態を取り戻すが、再度、倒れ、方子が願っていた元気な姿で、祖国の地を踏みしめることはなかった。

 

韓国に帰ってから

 1963年(昭和38年)、祖国を離れて57年目、朴大統領の好意により大韓民国に二人は帰ることができた。しかし、この時多くの韓国民の歓迎を受けながら、垠殿下は意識もないまま、それを知ることもなく、自分の足で祖国の地に立つこともないまま、飛行機を降りると車で病院に直行することになった。病状は回復することなく、垠殿下は1970年(昭和45年)5月1日72歳で帰らぬ人となった。

 日本に居るときから垠殿下と方子が語り合っていた帰国後の理想は、祖国を興す人材育成であり、恵まれない子供たちに役立ちたいということであった。共に帰った方子は、人材の育成の道は閉ざされていたが、残る福祉の仕事にはまだまだやらなければならないことがたくさんあった。方子は帰国して半年もしない内に具体的に動き始めていた。当時の韓国は李承晩大統領時代の徹底した排日政策の影響が大きく、方子への風当たりや評価も大変困難なものであった。さらに、韓国には、友人も知人もなく、生活習慣も違う中での活動であった。反日感情も強い中、方子は不幸な子供たちとその家族のために役立ちたいと、障害者の自立のための技能訓練学校慈恵学校や明暉園などを設立していく。その設立資金や運営費を集めるために朝鮮王朝衣裳展や寄付行脚などに世界各地を回った。自分の色紙も売って資金にした。自分の持てる力をすべてこの事業に費やし、慈恵学校もソウル郊外に校地四千坪と100名を越える生徒数、教室、講堂、寄宿舎のほかに、豚舎、鶏舎、鶏小屋などの農場も有する学校とすることができた。また、明暉園も地下一階、地上三階の明恵会館を落成させるまでになって彼女の夢は次第に形となってきた。ここまで彼女を動かした原動力は何なのだろうか。子ども達への愛、最後の皇太子妃としての責任、垠殿下の意志を受け継ぐことへの情熱なのか。晩年の方子には普通の人にはかなわない情熱で、自分の意思を貫き、時には、息子の玖から、あまりの寄付行脚に「乞食のようだ」と批判されたこともあったという。この情熱こそ、李方子が時代に翻弄された李王朝最後の皇太子妃としてだけの人生ではなく、人間として自分の人生を凛と生きた一人の女性として、後世に語り継がれてゆくのではないかと思う。その方子も1987年に87歳でこの世を去った。

 くしくも、今年2001年(平成13年)は方子の生誕100年にあたり、11月7日には自分の若き日に過ごした赤坂プリンスホテル旧館で、生誕100年の記念のお祝いが催されたという。

 
赤坂と関わった人々 | permalink | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |

スポンサーサイト

- | permalink | - | - | pookmark |

この記事に対するコメント

日本の武断政治への反発というが、これはソ連のコミンテルンとアメリカの策謀が大きい。 台湾ではそのような反発はないからである。 

また、関東大震災の朝鮮人のテロは実際にあったことである。震災をチャンスにテロを起こそうという朝鮮人グループが摘発されたりしていた。それをなかったことにしたのは、天皇陛下に累が及ぶのを恐れた後藤新平が緘口令を敷いたからである。
新しい事実の発見 | 2012/06/06 4:53 PM
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://akasaka-guide.jugem.jp/trackback/43
この記事に対するトラックバック