赤坂街歩き

赤坂を歩いて気づいた事感じた事を発信いたします
<< February 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | - | pookmark |
<< 龍馬が赤坂をゆく | main | 赤坂プリンスホテルの閉館に思う >>

赤坂で3度住居を変えた勝海舟

勝海舟 赤坂も児童数が減って、3校あった小学校が一つに統合された。廃校になった旧氷川小学校跡に特別養護老人ホーム「サンサンあかさか」と「子どもと中・高生のためのプラザ」を建設するため、文化財の発掘調査が行われた。

旧氷川小学校はもと「勝海舟こと勝安芳の屋敷跡」、その関連の出土品が見つかり、勝海舟の人となりがしのばれた。
 ◆旧氷川小学校の勝邸は明治新政府の役人になってからのもの

旧氷川小学校の地に勝が転居したのは、廃藩置県で江戸幕府がなくなり、一橋慶喜の謹慎も解除になって、新政府の海軍大輔に任官した明治五年のことであっ た。

もと旗本柴田七九郎の屋敷を買い、静岡から移転したものである。静岡には、明治維新にともない官軍から、一橋慶喜の駿府への蟄居を命じられ、共に、静 岡へ移り住んでいたからである。しかし、常に藩閥政府に反感をもっていた勝は新政府の中でも、反主流の立場をとったので、明治8年、元老院議官を命じられ たのを機に辞表を提出、在野の人となった。

それ以後、幕府旗本、士族の救済のための事業を興し、事業家として、奔走する。出土品の中からは、士族救済のた めに興したレンガ会社で焼いたレンガが出土した。それには、はっきりと「士族就産所東洋組西尾分局」と刻印されている。

◆蘭学を勉強し、蘭学塾を開いた赤坂田町時代

幕末の天保13年、勝は蘭学を学ぶため、赤坂溜池の黒田藩(現在赤坂2丁目、衆議院宿舎あたり)のお雇い蘭学者永井青崖のもとに通うことになった。自分 では手に入れることの出来ない蘭学の書物を借り出しては熱心に筆写した。この時、通うのに便利な赤坂田町のあばら屋に本所から引っ越したのである。

蘭学修行中に知り合った、箱(函)館の回船問屋の主人渋田利右衛門は勝の自宅を訪ねたときのことを、「天井は薪に炊いてしまい、壁はつっかえ棒をしてあり、破れ 畳三枚ほどの大変なあばら屋であった」と記している。蘭学を勉強中に西洋式砲術や製法を独習した。後に、ここで私塾「氷解塾(ルビ ひょうげじゅく)を開 き、多くの弟子に蘭学を教える一方、外国船が渡来する時代になり、諸藩からの鉄砲や大砲の製作、砲台の設計が勝に相次ぐようになった。

諸藩の大砲製造に奔 走している間に、アメリカのペリー提督が大統領の親書を携えて浦賀にやって来た。この時「海防についての意見書」を提出した幕府重職に認められ、幕府に登 用される。安政二年である。

◆幕府海軍の指導者、開国論を唱えた時代は赤坂元氷川下(今の赤坂6丁目)の時代

勝が幕府の役職についた後、幕府はオランダから献上された軍艦で、日本人の乗組員の養成をすることになった。その一員として、勝も長崎に派遣される。

勝が習得したオランダ語が大いに役に立ち、安政五年、勝は築地の軍艦操練所の頭取に就任した。この時に、氷川神社下の赤坂元氷川下の元旗本の屋敷に転居す る。ここにいる間に咸臨丸でアメリカに使節として派遣され、また後に西郷隆盛との会談により、幕末の難局を乗り切り、江戸の無血開城に導いた。

維新後は慶 喜と共に駿府に移り住むことになる。
赤坂と関わった人々 | permalink | - | - | pookmark |

スポンサーサイト

- | permalink | - | - | pookmark |