赤坂街歩き

赤坂を歩いて気づいた事感じた事を発信いたします
<< September 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | - | pookmark |
<< ダルマ宰相 高橋是清 その1 | main | 元氷川坂 >>

ダルマ宰相 高橋是清 その2

 「赤坂物語」著者 河端淑子

その1よりの続き

是清は安政元年(一八五四年)に幕府の御同胞頭支配絵師の子に生まれたが、故あって芝の仙台藩中屋敷に住む足軽・高橋是忠の養子となった。幼名を和喜次といい、生母との縁が薄かったせいか、生来の利発と陽気に独特の人なつこさが加わり、周囲の人に可愛いがられたという。とりわけ、養祖母の高橋喜代子は実の孫のように可愛がり、口ぐせのように「お前は足軽のままに終わってはいけない」と言って学問に力を入れさせた。

やがて、是清は幼いながら寺小姓をつとめ、元治元年(一八六四年)十歳の時に仙台藩の藩費で横浜の英学塾に入学、それから、三年後の慶応三年(一八六七 年)七月には米国留学生としてアメリカに旅立った。足軽の子としては異例の抜擢であったが、船旅は船賃五ドルの下等船室で、大部屋の臭気と食べ物には堪え がたいものがあったという。


この時、船賃二五〇ドルの上等船室には、やはり米国留学のため勝海舟の長男・小鹿が、二人の介添人・富田鉄之助と高木三郎とともに乗船していた。当時、勝海舟といえば勝安房守と称し、軍艦奉行として活躍していたころで、その子息といえば近寄りがたいところを、ものおじしない十三歳の是清は側近の富田鉄之助に窮状を訴え、もう一人の仲間と食事は上等船室で一緒にとれるように計らって貰った。いい意味での要領のよさを遺憾なく発揮しながらも、米国では複雑な英文が読めなかったために、ホームスティのための契約書だと思ってサインした書類が、実は奴隷売買の証文書で、奴隷に売られてしまったりとの苦労もあった。

米国でさまざまな経験をして、一年五カ月ぶりに是清が帰国すると、江戸幕府は崩壊して元号は明治と改まり、新政府は発足したばかりで日本は混沌の中にあった。是清は仲間とともに、軍務官判事を務める今を時めく薩摩藩の森有礼を頼り、開成学校と大学南校で学生兼教授手伝いとして英語をさらに学んだ。

その後、明治四年、十七歳の是清は九州・唐津の英語教師を皮切りにさまざまな仕事を転々とした後も森有礼の紹介で文部省に入省、明治九年に東京英語学校の教師に就任した、この年、是清は二十二歳で西郷柳子と結婚、翌年に長男が誕生するが、勤め先の校長の不品行を糾弾して自分で辞表を提出してまたも失業。熱血と直情が一つの仕事に長くとどまることを阻んだ。翻訳でようやく妻子を養っていたところを、農商務省から声が掛かった。

後に、これが是清が金融、財政界で活躍する大きな素地を作った。時に是清、二十七歳。身長一七三センチ、体重七十五キログラム。当時としては日本人離れした立派な体格で、丸い顔はどこか憎めないところがあった。

農商務省では工務局調査課に配属され、商標条令公布の実施に力を注ぎ、やがて特許局局長を経て明治二十五年(一八九二年)日本銀行に入行した。その後、順境となり、六年後に副総裁に就任し、日ロ戦争の時に外債募集に成功して大きな信用を得、後に大蔵大臣、首相を歴任するまでになった。

是清が初めて、馬車付きで勤務先に送迎されるようになった時、長寿を保った養祖母・喜代子は「昔、足軽は馬にも乗れなかったのに・・・」と感激の涙を流したという。

最高時の体重が百キロ近くあつたという体型と親しみやすさから「ダルマ宰相」と呼ばれた是清の人生は文字通り七転び八起きであったが、最後は歴史の嵐の中で劇的な幕を閉じた。

今、昔はさぞ立派であったろう日本庭園の名残をとどめる高橋是清翁公園の奥へと歩を進めると、鬱蒼として昼なお薄暗い木立ちの中に椅子に腰を下ろした高橋是清翁の銅像がみえる。幾度となく雨に洗われて黒みがかつた銅像は、ある種の風格とともに何ともいえない柔和な表情で時の中に佇んでいる。

あれから、驚異的に成長を遂げた平和な現代の日本の姿を慈しむような眼差しで・・・。
赤坂タウン誌より:「赤坂物語」 | permalink | - | - | pookmark |

スポンサーサイト

- | permalink | - | - | pookmark |