赤坂街歩き

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豊川稲荷と大岡越前守 その2

「赤坂物語」著者 河端淑子

その1よりの続き

書物をひもとくと大岡越前守こと、大岡忠相(ただすけ)は延宝五年(1677)、上級旗本・大岡美濃守忠高の四男として江戸で生まれている。母は北条出羽守氏重の娘で、氏重の実母(即ち忠相の曾祖母)が徳川家康の異父妹にあたる。
忠相は十歳の時、同族・大岡忠真の養子に入り、二六歳で御書院番として初めて幕府に出仕した。若き日の忠相は誠実な風貌、几帳面な仕事ぶりで武芸にも抜きん出ていたため、前途有望な官僚として注目されていたという。その後、順調に昇進して三六歳の時に伊勢の山田奉行に命ぜられた。
この時、隣の松阪の住民と長年境界争いをしていた山田の住民は、新任の奉行に早速訴えでた。調べてみると、非は明らかに松阪側にあるものの、松阪が徳川ご三家の一つ紀州領のため、威光を恐れて代々の山田奉行は決済をくだすことが出来なかったのである。
それを大岡忠相は堂々と公正に裁き、山田側の勝訴となった。当時、まだ紀州藩主であった徳川吉宗は、これを聞いてかえって感心し、後に忠相を重用するきっかけになったという。

この話は、実は真偽のほどは定かではないのだか、忠相の性格を伝えていて興味深い。

四年後、四十歳の忠相は江戸に呼び戻され、享保元年(1716)、今は八代将軍となった徳川吉宗のお声掛かりで御普請奉行(ごぶしんぶきょう)から江戸町奉行に任命されて、「越前守」の名を賜った。人々は異例の抜擢と噂したという。ちなみに、吉宗は忠相より八歳年下である。

忠相の江戸町奉行は在職約二〇年という長きにわたり、その間名裁判官ぶりが、脚色されて後世に伝わっている。裁判の仕方は、人の心の機微を察した深い情理を兼ね備えたものだったという・・・。
それは、忠相の人生にもとづいた順風満帆の日ばかりではなく、少年時代には親類の不祥事で二度の大岡家閉門に泣き、また、最初の結婚では妻と二人の子供を相次いで亡くすという暗黒の日々を送ったことがあるせいかもしれなかった。

忠相五九歳の時、さらに将軍・吉宗の大抜擢を受けて重職・寺社奉行に任じられ、司法ばかりでなく江戸の行政官として、防火対策(町火消、いろは組の結成)、救貧、風俗問題、物価対策にも腕を振るった。吉宗の行った享保の改革は、忠相との合作と言われているが、将軍の期待と信頼に応えるべく、忠相は粉骨砕身の努力を続けた。

吉宗は寛延四年(1751)六月に亡くなったが、大岡越前守忠相は六ケ月後、七五歳でその後を追うようにして亡くなった。
偶然のことではあるが、名裁判官・大岡越前守の江戸の上屋敷跡は現在、霞が関の法務省、検察合同庁舎に。また、下屋敷跡は大正五年に隣の赤坂小学校が校地拡張した際、敷地の一部が校地の一部となった。知性を重んじた越前守にふさわしいご縁であるが、その赤坂小学校も、児童数激減のため、廃校になることが昨年決まった。

今度は何が何が建てられるのか、越前守も気を揉んでおられるのではないだろうか・・・。

赤坂タウン誌より:「赤坂物語」 | permalink | - | - | pookmark |

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