赤坂街歩き

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豊川稲荷と大岡越前守 その1

「赤坂物語」著者 河端淑子

元赤坂の豊川稲荷は、愛知県豊川市の「豊川稲荷」の別院らあたる曹洞宗のれっきとした「お寺」である。正しくは妙厳寺(みょうごんじ)といい、守護神として祀られた豊川咤枳尼真天(だきにしんてん)によって、通常は豊川稲荷の名で知られる。

稲荷というと、「神社」のイメージが強いが、稲荷信仰の系統には、神社系と仏教系の二つがあり、後者の代表的なお寺が豊川稲荷と、岡山の最上(さいじょう)稲荷である。
赤い提灯(ちょうちん)や、沢山の幟(のぼり)で飾られた赤坂の豊川稲荷は、開運を祈って一年中参拝客が絶えない。境内の奥に山口百恵さんを始めとする人気歌手の記念植樹も数本植えられていて、不思議な華やかさを醸(かも)しだしている。
この赤坂の豊川稲荷と、清廉な気風で知られる江戸時代中期の名奉行・大岡越前守が実は密接な関係にある。
というのは、越前守が晩年に三河西大平(みかわにしおおひら・愛知県岡崎市)一万石の大名に任命された時、信仰していた三河の「豊川稲荷」を本山(ほんざん)から分霊(ぶんりょう)して、赤坂の自邸の庭に祀ったのが、赤坂の豊川稲荷の起源となったからである。

文政十一年(1828)には、大岡家の門戸が開かれて一般の参拝が許されるようになった。
なぜならば、当時は稲荷信仰が極めて盛んで、三河の豊川稲荷の本山へ詣でる「豊川参り」は、「伊勢参り」に次いで人気を集めていた。が、関東の信者にとって三河はあまりに遠く、江戸府下で参拝出来る分霊所が信者から熱望されていたためであった。
また、この頃、大岡越前守の名声は全国的に広まり、吉宗によって稀有の出世を遂げた越前守にあやかろうと、開運出世を願う一般の人々や、とりわけ芸道を業(なりわい)にする人の豊川稲荷信仰が日を追うごとに高まっていった。

時は流れ、信者が増えて手狭になった豊川稲荷は大岡家敷地内から移されることになり、明治二十年に道路を隔てた斜め向かいの現在の地に遷座された。
豊川稲荷では毎年九月に大岡祭が開かれるが、加藤剛さん扮するテレビの「大岡越前守」の影響もあって、越前守の人気は今もって根強い。中には、小説の主人公だと思っている視聴者もいるらしいが、大岡越前守は実在の人物で、子孫の方々もご健在である。

品川区にお住まいの現在のご当主・大岡忠輔(ただすけ)氏は大岡家嫡流の十四代目で、越前守から数えると九代目にあたる。昭和23年に東大法学部を卒業され、味の素の専務取締役を経て、数年前までクノール食品株式会社の社長を務められた。
現在は同社の相談役をされているが、知的で上品な風貌はどこか越前守のイメージを彷彿とさせる。語学も堪能、スポーツは少年時代テニスの大会で優勝の経験ありと、文武両道に秀でるご当主は、気負う風もなく「特に意識はしませんでしたが、先祖の名を汚してはいけないと、子供の頃からそれだけは気を遣いました」と淡々とした表情で話される。いまだに越前守の人柄を慕ってくれる人が多いのは、とても嬉しいことと・・・。
 それにしても、没後二四〇年を経た現在も、人々の心をとらえる大岡越前守とは、いったいどとのような人物であったのだろうか?

その2に続く
赤坂タウン誌より:「赤坂物語」 | permalink | - | - | pookmark |

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