赤坂街歩き

赤坂を歩いて気づいた事感じた事を発信いたします
<< May 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | - | pookmark |
<< 豊川稲荷と大岡越前守 その2 | main | 赤坂タウン誌プロフィール >>

赤坂の花街が今に伝える伝統的日本式接待術 料亭

料亭の中庭
酒には昔からタボ(タボとは日本髪の後ろのふくれた部分を指す言葉。俗称として芸者衆のことをいう。)という言葉があり、「美女の酌は酒が進む、うまい料理にはうまい酒」といわれている。そして、料理をおいしいと感じさせるのは、「1、に新鮮で良質な材料と、2、に食器 3、にその場の雰囲気」とも。 赤坂の料亭はこのような日本流接待の場を提供するところとして発展してきた。だから、赤坂の料亭は茶道の伝統を引く日本建築の粹を凝らした数寄屋造り。庭園も石、竹、苔、笹などを使って深山幽谷を擬し、さらに、部屋のたたずまいをととのえるのに床の間には由緒のある掛け軸をかけるのだという。 そして、芸者さんは、宴の初めにに余興で踊りを披露し、踊りが終わると宴席に座って、酌をしお客さんを楽しませたのだそうだ。日本では胸襟を開いて話を進める場としてこのうな宴会のスタイルがほとんどだったとか。赤坂の料亭はこんな場の中心となってきた。
赤坂の花街の発生は、遠く江戸時代に遡るが、しかし、今日のような盛時を迎えるのは、明治時代後半からのこと。国会議事堂が千代田区内幸町に出来、付近も中央官庁街となり、近衛連隊が「一ツ木」の丘に建設されてからのことで、当時、外堀通りは文字通り江戸城の外堀であり、赤坂見附から虎の門までの細長い「堀」の真ん中の池が溜池であった。赤坂の料亭街は溜池の赤坂よりの岸にあったという。芸者屋は赤坂見附寄りに多く、三味線箱を持った箱屋に導かれて芸者さんはチャキ船に乗って料亭に通った時代であった。

外堀がすっかり埋め立てられると、料亭街には、ドラと拍子木を持ったコワイロシ(音色師)が現れ、お客に一席を演じ、御ひねりをもらう風景がみられた。三角に折った手拭いを頭にのせて三味線を流す新内流しも盛んに姿を現し、江戸浄瑠璃の哀愁に満ちたクドキの一節を聞かせたのもこの頃のこと。黒塗りの人力車に乗って料亭に通う芸者衆の姿も見え賑わったという。

梅雨時、雨に濡れる人力車から日本髪姿の芸者が降り、朱塗りの番傘を開き料亭の裏口に入る一瞬、その姿は一幅(いっぷく)の絵のようだったとか。

今の赤坂は地下鉄が縦横に走り、ビルが乱立し、盛時80軒あった料亭は17軒(平成3年当時)に減り、建ち並ぶ高層ホテルには、今、成田に着いた客が入り、赤坂の街に消えていく。料亭に代わってバーも増え、外国人も盛んにくるようになった。まさに、赤坂は日本情緒から国際都市に変貌する真っ最中にあるようである。


この記事は「赤坂タウン誌 Vol.2(1991年秋季号)」に掲載した内容を復刻掲載いたしました。

赤坂タウン誌より:あなたの知らない赤坂教えます | permalink | - | - | pookmark |

スポンサーサイト

- | permalink | - | - | pookmark |