赤坂街歩き

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赤坂の歴史と人を訪ねて

「赤坂物語」著者 河端淑子

「赤坂ってどんな街のイメージ?」

一ツ木通りを颯爽と歩くギャルに尋ねたら、

「カッコいい大人の街。洗練されたホテルやお店も沢山あるし・・・リッチでナウいという感じかしら」という答が返ってきた。

その昔、草深く茂り、夜ともなれば狐の泣く声が闇の静寂(しじま)を破る民家まばらな里、赤坂村が現在のような華麗な発展を遂げるとは当時の誰が想像しえたでしょうか。

何でもこのあたりに、人が住み始めたのは今から六千年程前のことだそうで現に青山墓地では縄文土器が、一ツ木原といわれた現在の一ツ木通りの付近では貝塚が発見されている由。また、高台の裾野には水田が多く、それゆえ大和朝廷の時代には荏原郡・桜田郷という地名であったとか。

やがて、この地は平安時代の末から桓武天皇の流れをくむ豪族・江戸氏の勢力下に入り、戦国時代の1524年には小田原の北条氏綱が、太田道灌亡きあと江戸城を守っていた上杉朝興を高縄原(現在の高輪)で打ち破り、やはり戦場であった一ツ木原で勝ちどきの声をあげたと伝えられております。

さらに、時は移り、天正18年(1590)北条氏は徳川家康に討たれ、江戸城は太田道灌築城より135年、北条氏が有すること67年にして徳川家のものになりました。かくて徳川家康が江戸城の城主となってからまもなく、老朽化していた江戸城総構え工事が始まり、江戸城付近の整備も併せて行われたのですが、赤坂が急速に開けていったのはまさにこの時が契機でした。


赤坂は江戸城の西寄りの地に山の手台地の一角をなすため、家康は江戸城西部外衛の地として重視し、赤坂の高台には徳川ご三家の一つ紀州徳川家をはじめ、大身の旗本、大名屋敷に給地し、低地は幕下藩士の宅地に分給する土地政策をとり、これを以てこの地は大名、武家の屋敷町として定着、発展していくことを運命づけられたのでした。

また、赤坂は思いがけない歴史的人物の蝟集(いしゅう)したところ。現・赤坂小学校(現在は赤坂8丁目に移転)は江戸南町奉行を務めた大岡越前守の下屋敷跡であることは知る人ぞ知る話。さて、名奉行・大岡越前守といえば、彼を信頼しとりわけ重用したのが、紀伊和歌山藩大納言で後に八代将軍となった徳川吉宗。そのお屋敷は江戸三十六見附の一つ、赤坂見附門のすぐ近くにあり、紀州屋敷と呼ばれておりましたが、明治に入って皇宮地に召され現在は赤坂迎賓館となってネオバロック様式の美しい姿を見せてくれています。

ちなみに、紀州屋敷は昔、赤根山(茜が多くとれたので茜山とも書く)と呼ばれた高台にあり、紀伊様のお屋敷ができてから側の坂は「紀伊国坂(きいくにざか)」と呼ばれるようになったのですが、それ以前に赤根山(茜山)に登る坂ゆえ「あかね坂」→「赤坂」と呼ばれていたそうで、このあたり一帯を赤坂と呼ぶ起源であるとか。

その徳川吉宗の産土神でもある赤坂の鎮守・氷川神社は、建立以前は忠臣蔵で知られる播州赤穂藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の未亡人・瑤泉院の実家があった所。目の前の現、アメリカ大使館宿舎は三井財閥を率いた三井総本家当主・三井八郎衛門のお屋敷跡。はたまた、氷川神社のすぐ近く、現・赤坂六丁目の氷川小学校(平成5年、赤坂小学校に統合され、廃校)は西郷隆盛との会談で江戸無血開城に成功した明治の英傑・勝海舟の住居跡。

ちなみに海舟は、赤坂の中で三度住まいを変えており、ここは終(つい)の住居(すみか)。初めて赤坂に越して来たのは24歳の時で、赤坂の福岡藩の黒田家お抱え蘭学者・永井青涯に師事するため本所入江町から身重の妻・民子を連れて赤坂田町(現・赤坂三丁目)に。薪に困るほどの貧乏生活で床板を一枚づつはがしながら、かまどの火を焚いたとか。それから13年後、赤坂元氷川(現赤坂六丁目)に転居。咸臨丸でサンフランシスコに出発したのも、軍艦奉行、陸軍総裁を拝命し、徳川慶喜をたすけて獅子奮迅の働きをしたのもこの時代。大政奉還が終わり、いったんは慶喜とともに静岡に下ったものの、明治政府の度重なる協力要請の声に上京し、居をかまえたのが、元五千五百石取りの大旗本・柴田七九郎より金五百両で買い受けた武家屋敷。明治32年77歳で亡くなるまでここで過ごし、「氷川清話」や「氷川の音ずれ」の舞台となりました。また、赤坂八丁目の乃木神社は乃木希典将軍の住居跡。すぐ近くには、木戸孝允のお屋敷も・・・。限られた枚数では紹介しかねるほど。

赤坂のいにしえを訪ねれば、時の立つのも忘れるくらいさまざまな秘められた話が残っております。

けれども、ここ十数年の間にオフィスビルが立ち並び、華やかなネオンの数も増え、赤坂の歴史は次第にコンクリートの舗装の中に閉じ込められていくような気持ちがいたします。

それでも、赤坂の街の一隅には苔むした石垣や、深い緑に抱かれてどこか哀愁おびた細い坂、樹齢を深く幹に刻みながらなにか言いたげに無言の饒舌を落ち葉にして繰り返す銀杏や檜の大木がまだまだひっそりと生き残っているのです。あなたが、赤坂の歴史の名残を求めて、町深く歩かれた時、きっとなにかが語りかけてくることでしょう。


この記事は「赤坂タウン誌 創刊号(1991年春季号)」に掲載した内容を復刻掲載いたしました。




赤坂タウン誌より:「赤坂物語」 | permalink | - | - | pookmark |

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