
龍馬と海舟の出会いについては、本誌(
赤坂タウン誌)
創刊号の立松和平氏の文章に詳しい。が、今回はこの出会いが江戸幕府の終焉を早め、それに果たした二人の役割に触れながら、赤坂の地を龍馬が行き来したであろう姿を想像しつつ、赤坂について考えてみたい。
◆出会い

文久2年(1862)、土佐藩を脱藩した坂本龍馬は江戸に出、神田お玉が池にあった北辰一刀流千葉道場「玄武館」を寄宿場所としていた。時代はペリーの浦
賀来航以来、開国か攘夷かで国論が二分し、大老井伊直弼が桜田門外で殺害されるなど、尊皇攘夷派が急進的な行動に出てきていたころであった。
龍馬も土佐勤王党の一員として、攘夷の志を持って、江戸に出て来たのである。一方、勝海舟は万延元年(1860)に幕府の遣米使節団として咸臨丸でアメリカに渡り、帰国後、幕府軍艦奉行並という幕府の要職を務めていた。軍艦奉行並とは、今風にいえば、防衛庁の次官に相当したという。
千葉道場の玄武館に滞在した龍馬は館主千葉定吉の息子で同じ攘夷思想の持ち主である重太郎と共に、幕府の開国派といわれている海舟を殺害するため、同年の後半のある日(10月とも12月ともいわれている)赤坂氷川下(現在赤坂6丁目13-2 ソフトタウン)の海舟の屋敷へ向かった。
しかし、そこで、逆に海舟に「世界の情勢は攘夷などと行っている場合ではなく、海軍を起こし、航海貿易により、富国強兵して、外国と戦わねばならない」と順々と説かれ、龍馬は自分の単純な攘夷論を恥じ、その場で海舟に弟子入りをしたという。