赤坂街歩き

赤坂を歩いて気づいた事感じた事を発信いたします
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ダルマ宰相 高橋是清 その2

 「赤坂物語」著者 河端淑子

その1よりの続き

是清は安政元年(一八五四年)に幕府の御同胞頭支配絵師の子に生まれたが、故あって芝の仙台藩中屋敷に住む足軽・高橋是忠の養子となった。幼名を和喜次といい、生母との縁が薄かったせいか、生来の利発と陽気に独特の人なつこさが加わり、周囲の人に可愛いがられたという。とりわけ、養祖母の高橋喜代子は実の孫のように可愛がり、口ぐせのように「お前は足軽のままに終わってはいけない」と言って学問に力を入れさせた。

やがて、是清は幼いながら寺小姓をつとめ、元治元年(一八六四年)十歳の時に仙台藩の藩費で横浜の英学塾に入学、それから、三年後の慶応三年(一八六七 年)七月には米国留学生としてアメリカに旅立った。足軽の子としては異例の抜擢であったが、船旅は船賃五ドルの下等船室で、大部屋の臭気と食べ物には堪え がたいものがあったという。
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ダルマ宰相 高橋是清 その1

「赤坂物語」著者 河端淑子

青山通りを赤坂見附から渋谷に向かって歩いていくと、草月会館とカナダ大使館の間にこんもりとした樹々に囲まれた小さな公園がある。クヌギ、椎の木、楓、梅、桜と思い思いに広がった枝の合間からようやく空が見える緑深いこの空間は、さながら都会のオアシスのように道行く人の心を和ませてくれる。

旧称・赤坂表町・現赤坂七丁目にあるこの公園は「高橋是清翁記念公園」といい、昭和十一年に二・二六事件で暗殺された大蔵大臣・高橋是清氏の屋敷跡である。当時の高橋邸の敷地は二千坪あり。高橋氏はここに三十六年の長きにわたって住まわれた。事件後、邸宅は多摩霊園に移され、敷地は東京市に寄附されて、その一部が公園になっている。

今、初夏の昼下がりに公園を訪れてみれば、青葉がきらきらと眩い日差しに照り映え、人々がベンチでくつろぐ、のどかな風景がある。一体、今から五十六年前の二月二十六日の雪の早朝、ここで何が起きたのだろうか?
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豊川稲荷と大岡越前守 その2

「赤坂物語」著者 河端淑子

その1よりの続き

書物をひもとくと大岡越前守こと、大岡忠相(ただすけ)は延宝五年(1677)、上級旗本・大岡美濃守忠高の四男として江戸で生まれている。母は北条出羽守氏重の娘で、氏重の実母(即ち忠相の曾祖母)が徳川家康の異父妹にあたる。
忠相は十歳の時、同族・大岡忠真の養子に入り、二六歳で御書院番として初めて幕府に出仕した。若き日の忠相は誠実な風貌、几帳面な仕事ぶりで武芸にも抜きん出ていたため、前途有望な官僚として注目されていたという。その後、順調に昇進して三六歳の時に伊勢の山田奉行に命ぜられた。
この時、隣の松阪の住民と長年境界争いをしていた山田の住民は、新任の奉行に早速訴えでた。調べてみると、非は明らかに松阪側にあるものの、松阪が徳川ご三家の一つ紀州領のため、威光を恐れて代々の山田奉行は決済をくだすことが出来なかったのである。
それを大岡忠相は堂々と公正に裁き、山田側の勝訴となった。当時、まだ紀州藩主であった徳川吉宗は、これを聞いてかえって感心し、後に忠相を重用するきっかけになったという。

この話は、実は真偽のほどは定かではないのだか、忠相の性格を伝えていて興味深い。

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豊川稲荷と大岡越前守 その1

「赤坂物語」著者 河端淑子

元赤坂の豊川稲荷は、愛知県豊川市の「豊川稲荷」の別院らあたる曹洞宗のれっきとした「お寺」である。正しくは妙厳寺(みょうごんじ)といい、守護神として祀られた豊川咤枳尼真天(だきにしんてん)によって、通常は豊川稲荷の名で知られる。

稲荷というと、「神社」のイメージが強いが、稲荷信仰の系統には、神社系と仏教系の二つがあり、後者の代表的なお寺が豊川稲荷と、岡山の最上(さいじょう)稲荷である。
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赤坂の歴史と人を訪ねて

「赤坂物語」著者 河端淑子

「赤坂ってどんな街のイメージ?」

一ツ木通りを颯爽と歩くギャルに尋ねたら、

「カッコいい大人の街。洗練されたホテルやお店も沢山あるし・・・リッチでナウいという感じかしら」という答が返ってきた。

その昔、草深く茂り、夜ともなれば狐の泣く声が闇の静寂(しじま)を破る民家まばらな里、赤坂村が現在のような華麗な発展を遂げるとは当時の誰が想像しえたでしょうか。

何でもこのあたりに、人が住み始めたのは今から六千年程前のことだそうで現に青山墓地では縄文土器が、一ツ木原といわれた現在の一ツ木通りの付近では貝塚が発見されている由。また、高台の裾野には水田が多く、それゆえ大和朝廷の時代には荏原郡・桜田郷という地名であったとか。

やがて、この地は平安時代の末から桓武天皇の流れをくむ豪族・江戸氏の勢力下に入り、戦国時代の1524年には小田原の北条氏綱が、太田道灌亡きあと江戸城を守っていた上杉朝興を高縄原(現在の高輪)で打ち破り、やはり戦場であった一ツ木原で勝ちどきの声をあげたと伝えられております。

さらに、時は移り、天正18年(1590)北条氏は徳川家康に討たれ、江戸城は太田道灌築城より135年、北条氏が有すること67年にして徳川家のものになりました。かくて徳川家康が江戸城の城主となってからまもなく、老朽化していた江戸城総構え工事が始まり、江戸城付近の整備も併せて行われたのですが、赤坂が急速に開けていったのはまさにこの時が契機でした。


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