先日の街歩きの会は天気に恵まれ、溜池から始まって、氷川神社、南部坂まで歩き、PM4:00に無事終わることができました。ご参加いただいた皆様ありがとうございました。説明ではあまり詳しくお話できませんでしが、赤坂タウン誌「AKASAKA」で、河端淑子さんが南部坂について詳しく書いていらっしゃいますので、ここで紹介したいと思います。ご一読ください。
赤坂南部坂考
「瑶泉院の春秋」 赤坂物語 河端淑子
★爛漫の春
延宝6(1677)年四月の初め、午後のゆるやかな日溜まりの中、赤穂浅野家の屋敷ではお花見の会がひらかれて笑い声がさざめきこぼれていた。樹齢を重ねた桜の古木は今を盛りに咲きほこり、その下で宴を催している人々の肩に時折り白い花びらがはらはらと舞い落ちた。
上座には、一対の雛人形のように晴れ着姿の十二才の若君と五才の小さな姫君がならび、家臣の祝福をはしゃぎながら受けていた。若君は五万三千石の播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)、姫君は五万石の備後三次(びんごみよし)藩主浅野因幡守長治(あさのいなばのかみながはる)の次女で名は阿久里。つい先年、遠い親戚でもある幼い二人は結納をかわし、阿久里は浅野家の将来の奥方として、赤穂の浅野家の屋敷に乳母とともに引き取られてきたばかりだった。
長矩は父親の播州赤穂藩主、浅野長直が早生したため九才で城主となった。幼齢で藩主となった長矩に早く正室を決めておかないとという回りの思惑から、一族の中から阿久里が選ばれたといわれる。
幼い二人は同じ屋敷内でいいなずけ同士として暮らし始め、書は天下一流の北島雪山に、絵は狩野派に、茶道は石州流にと、ともに机を並べて学んだ。阿久里も長矩と同じように父を早く亡くし、どこかさびしい心は兄を慕うように、相手を想い、長矩も愛くるしい顔立ちの上に、素直で利発な阿久里を妹のようにいつくしんだ。二人が正式に夫婦となったのは元禄元(1688)年、長矩24才、阿久里17才の時であるが、12年も兄妹のように育んだ愛情は、自然に愛情へと変わっていった。
結婚後、幕府の制度にしたがって阿久里は築地鉄砲州にある赤穂浅野家の江戸屋敷に住み、長矩は播州赤穂城から参勤交代のたびに上京してともに過ごした。夫婦となって11年、夫は学究肌の一面、短気で神経質なところもあり、多少の波風はあってもまずは穏やかな日々が過ぎていった。ただ、子宝に恵まれないことと、もうひとつ阿久里の心を痛めていたのは、夫の健康がすぐれないことで、偏頭痛と痞(つかえ)という発作的に胸がふさがって苦しむ持病があり、薬湯の服用が欠かせないことだった。
ここ数日来も、勅使饗応役という大役を任命されて、精神的な疲労がたまっているせいか偏頭痛に悩まされて、いらだつ夫をはらはらと見守ってきた。そして、勅使饗応の日、ほとんど眠れないまま早朝に目覚めた長矩は、血の気のない顔色で身支度を整えた。とはいえ、仕立ておろしの熨斗目小袖を着た長矩はひときわ凛々しく、城中で着替えるはずの直垂烏帽姿の盛装姿もさぞかしと思われて、阿久里は誇らしげな気持ちと不安とが交錯する複雑な思いで夫の後姿を見送った。