赤坂街歩き

赤坂を歩いて気づいた事感じた事を発信いたします
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「赤坂街歩き」を再開します。

 今まで、東北地方の大震災の影響で中断していた「赤坂の街歩き」を再開いたします。赤坂は江戸時代から現在に至まで、大都市江戸、東京の中心として歴史を刻んできました。地元ならではの歴史を詳しく紹介し、赤坂がもっと楽しく、身近に感じてもらえれば幸いです。是非ご参加をお待ちいたしております。また、赤坂のお隣の青山墓地も明治以来の歴史的に活躍した人物が眠っています。お墓を巡りながら、日本の近代を考えてみませんか。現在は明治以来の変革の時期と言われています。明治、大正、昭和初期の時代を改めて考えてみましょう。

★日本近代史の宝庫─青山墓地を歩いてみませんか。

◆「青山墓地を歩く」のお知らせ

 歴史好き、特に日本近代史に興味のある者にとって青山墓地はたまらない。幕末から明治維新、明治政府を形づくった政治家たち、日清・日ロ戦争を戦った軍人などがここに眠る。その人たちの生きた時代をもう一度考えてみましよう。


 青山墓地歩きは5月から5回に分けてお墓を巡る。

☆第一回 5月22日(日)13:00〜16:00

     「坂の上の雲の登場人物の墓を巡る」Part1

☆第二回 6月19日(日)13:00〜16:00

     「坂の上の雲の登場人物の墓を巡る」part 2、

 参加費 2000円(資料代、保険料含む)/一回

 定 員 25名

 

★赤坂のおいしいものを食べながら

 街の記憶を探る

◆「赤坂街歩きの会」のお知らせ シリーズ1

  赤坂街歩きは6月から5回に分けて知られていない赤坂の「江戸」「幕末」「明治」「大正・昭和初期」「戦後」の時代を歩く。

          

☆第一回 6月4日(日)10: 00〜15: 00

    「黒鍬谷に生きた人々─赤坂の江戸時代を歩く」

☆第二回 7月3日(日)10: 00〜15: 00

    「龍馬も歩いた幕末の赤坂を歩く」


参加費 2000円(資料代、保険料、特典─赤坂名物を含む)/一回

    ランチ(実費1000〜2000円まで) 

定 員 30名

申込み・問合せ先 赤坂街歩きの会 090-4097-6304(日野)

                  e-mail   YQL05371@nifty.com 


主 催 赤坂街歩きの会

後 援 赤坂青山新聞


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おいしいランチを食べながら、赤坂街歩きの会

 赤坂のおいしいものを食べながら

街の記憶を探る

◆「赤坂街歩きの会」のお知らせ

 赤坂の街歩きの会は10月から5回に分けて、知られていない赤坂の「江戸」、「幕末」、「明治」、「大正・昭和初期」、「戦後」の街の史跡を探訪する。

●第3回「混乱の中から住民が入れ代わった明治時代を歩く」

▷日時 12月5日(日)10:3015:00

▷コース 乃木邸、山脇高等女学校跡、木戸邸跡、旧中之町尋常小学校・赤坂高等小学校跡、三井総本家跡、勝海舟の青い目のお嫁さんと赤坂教会、旧中之町尋常小学校・赤坂高等小学校跡、旧東京市氷川尋常小学校、代用私立氷川尋常小学校、一条家、九条家、黒田邸跡、代用私立溜池尋常小学校跡、旧赤坂小学校分教場跡など

●第4回「大正ロマンと激動の時代を歩く」

▷日時 110日(月・祝)10:3015:00

▷コース 李韓国皇太子邸跡、赤坂ローヤル館跡、2.26事件(幸楽、山王ホテル)跡、旧府立一中跡、葵館跡、フロリダ跡、演技座跡、花柳界・料亭通り、旧赤坂中学校跡、薬研坂・近衛第3連隊跡、高橋是清邸跡、赤坂能楽堂跡、加奈陀公使館など

●第5回「栄華の後・戦後の華やかなりし頃の赤坂の面影をしのぶ」

 ▷コース ニューラテンクウォーター、月世界、無限、コパカバーナ、ミカド、花柳界(ビルに残る料亭の名前探し)など

▷参加費 各回 二千円(資料代・保険料・赤坂名物を含む) ランチ(実費)

▷講師 藤田薫 日野睦子

▷定員 各回 30

主催 赤坂街歩きの会

後援 赤坂青山新聞

申し込み 090-4097-6304(日野)・YQL05371@nifty.com

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街歩きの会より

  先日の街歩きの会は天気に恵まれ、溜池から始まって、氷川神社、南部坂まで歩き、PM4:00に無事終わることができました。ご参加いただいた皆様ありがとうございました。説明ではあまり詳しくお話できませんでしが、赤坂タウン誌「AKASAKA」で、河端淑子さんが南部坂について詳しく書いていらっしゃいますので、ここで紹介したいと思います。ご一読ください。

赤坂南部坂考
「瑶泉院の春秋」  赤坂物語 河端淑子

 ★爛漫の春
 延宝6(1677)年四月の初め、午後のゆるやかな日溜まりの中、赤穂浅野家の屋敷ではお花見の会がひらかれて笑い声がさざめきこぼれていた。樹齢を重ねた桜の古木は今を盛りに咲きほこり、その下で宴を催している人々の肩に時折り白い花びらがはらはらと舞い落ちた。
 上座には、一対の雛人形のように晴れ着姿の十二才の若君と五才の小さな姫君がならび、家臣の祝福をはしゃぎながら受けていた。若君は五万三千石の播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)、姫君は五万石の備後三次(びんごみよし)藩主浅野因幡守長治(あさのいなばのかみながはる)の次女で名は阿久里。つい先年、遠い親戚でもある幼い二人は結納をかわし、阿久里は浅野家の将来の奥方として、赤穂の浅野家の屋敷に乳母とともに引き取られてきたばかりだった。
 長矩は父親の播州赤穂藩主、浅野長直が早生したため九才で城主となった。幼齢で藩主となった長矩に早く正室を決めておかないとという回りの思惑から、一族の中から阿久里が選ばれたといわれる。
 幼い二人は同じ屋敷内でいいなずけ同士として暮らし始め、書は天下一流の北島雪山に、絵は狩野派に、茶道は石州流にと、ともに机を並べて学んだ。阿久里も長矩と同じように父を早く亡くし、どこかさびしい心は兄を慕うように、相手を想い、長矩も愛くるしい顔立ちの上に、素直で利発な阿久里を妹のようにいつくしんだ。二人が正式に夫婦となったのは元禄元(1688)年、長矩24才、阿久里17才の時であるが、12年も兄妹のように育んだ愛情は、自然に愛情へと変わっていった。
 結婚後、幕府の制度にしたがって阿久里は築地鉄砲州にある赤穂浅野家の江戸屋敷に住み、長矩は播州赤穂城から参勤交代のたびに上京してともに過ごした。夫婦となって11年、夫は学究肌の一面、短気で神経質なところもあり、多少の波風はあってもまずは穏やかな日々が過ぎていった。ただ、子宝に恵まれないことと、もうひとつ阿久里の心を痛めていたのは、夫の健康がすぐれないことで、偏頭痛と痞(つかえ)という発作的に胸がふさがって苦しむ持病があり、薬湯の服用が欠かせないことだった。
 ここ数日来も、勅使饗応役という大役を任命されて、精神的な疲労がたまっているせいか偏頭痛に悩まされて、いらだつ夫をはらはらと見守ってきた。そして、勅使饗応の日、ほとんど眠れないまま早朝に目覚めた長矩は、血の気のない顔色で身支度を整えた。とはいえ、仕立ておろしの熨斗目小袖を着た長矩はひときわ凛々しく、城中で着替えるはずの直垂烏帽姿の盛装姿もさぞかしと思われて、阿久里は誇らしげな気持ちと不安とが交錯する複雑な思いで夫の後姿を見送った。
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赤坂街歩きの会のご案内

 街の記憶を探る

◆「赤坂街歩きの会」のお知らせ

 飲食の街赤坂の美味しいランチを食べながら、赤坂の昔に思いをはせてみませんか。


 赤坂の街は歴史の宝庫。黒鍬谷で暮らした人々が明治期の赤坂の教育に大きく貢献し、勝海舟と坂本龍馬の赤坂での出会いが明治維新への歩みを加速させた。赤坂を歩けばその時代、その時代で大きな役割を担いながら、そして今なおその歴史の延長の中に息づく赤坂を発見するに違いない。この街で、赤坂の人々は何を思い、どのような生活していたかにふれて改めて街を振り返ってみれば、新しい赤坂を発見できるかも知れない。


 赤坂街歩きは、10月から5回に分けて街の史跡を探訪。(知られていない赤坂の「江戸」、「幕末」、「明治」、「大正・昭和初期」、「戦後」の時代を歩く)

主 催 赤坂街歩きの会

後 援 赤坂青山新聞

参加費 2000円(資料代、保険料、特典赤坂名物を含む)/一回

    赤坂離宮でランチ(実費1000〜2000円まで) 

定 員 20

申込み・問合せ先 赤坂街歩きの会 090-4097-6304(日野)

                  e-mail   YQL05371@nifty.com 

          

第一回 10月3日(日) 11: 00〜16: 00

    「黒鍬谷に生きた人々江戸時代を歩く」

    ▷コース 江戸時代の広かった溜池、黒鍬谷、末広稲荷、報土寺、円通寺、忠臣蔵の南部坂、氷川神社などを歩きます。

第二回 11月3 日(水)11: 00〜16: 00

    「龍馬も歩いた幕末の赤坂を歩く」勝海舟邸跡、坂本龍馬、篤姫、

     盛徳寺跡、など

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赤坂プリンスホテルの閉館に思う

  赤坂のシンボルともいわれた、赤坂グランドプリンスホテルが今年いっぱいで閉館になるという。ここは、日本の歴史を象徴するところとしても記憶の中に残る場所である。江戸時代は紀州徳川家の屋敷であり、大正、昭和初期には日本の植民地となった韓国から人質同然に日本に留学として連れて来られ、日本の軍人として過ごした韓国皇太子李垠の屋敷であった。戦後それを西武が買い取り、赤坂プリンスホテルとして開業、日本の西洋式ホテルの先駆けとして、また、赤坂のホテル街の先駆けとして、赤坂のシンボルになっていた。ここには、軍国主義時代の政略結婚で韓国皇太子に嫁ぎ、韓国のために一生を捧げた日本女性が暮らした場所でもある。詳しくは赤坂タウン誌13号に掲載されているので、ここに再掲載をさせていただく。

現在の赤坂プリンスホテル
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赤坂で3度住居を変えた勝海舟

勝海舟 赤坂も児童数が減って、3校あった小学校が一つに統合された。廃校になった旧氷川小学校跡に特別養護老人ホーム「サンサンあかさか」と「子どもと中・高生のためのプラザ」を建設するため、文化財の発掘調査が行われた。

旧氷川小学校はもと「勝海舟こと勝安芳の屋敷跡」、その関連の出土品が見つかり、勝海舟の人となりがしのばれた。
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龍馬が赤坂をゆく

龍馬と海舟の出会いについては、本誌(赤坂タウン誌創刊号の立松和平氏の文章に詳しい。が、今回はこの出会いが江戸幕府の終焉を早め、それに果たした二人の役割に触れながら、赤坂の地を龍馬が行き来したであろう姿を想像しつつ、赤坂について考えてみたい。

 ◆出会い

玄武館跡文久2年(1862)、土佐藩を脱藩した坂本龍馬は江戸に出、神田お玉が池にあった北辰一刀流千葉道場「玄武館」を寄宿場所としていた。時代はペリーの浦 賀来航以来、開国か攘夷かで国論が二分し、大老井伊直弼が桜田門外で殺害されるなど、尊皇攘夷派が急進的な行動に出てきていたころであった。
龍馬も土佐勤王党の一員として、攘夷の志を持って、江戸に出て来たのである。一方、勝海舟は万延元年(1860)に幕府の遣米使節団として咸臨丸でアメリカに渡り、帰国後、幕府軍艦奉行並という幕府の要職を務めていた。軍艦奉行並とは、今風にいえば、防衛庁の次官に相当したという。

千葉道場の玄武館に滞在した龍馬は館主千葉定吉の息子で同じ攘夷思想の持ち主である重太郎と共に、幕府の開国派といわれている海舟を殺害するため、同年の後半のある日(10月とも12月ともいわれている)赤坂氷川下(現在赤坂6丁目13-2 ソフトタウン)の海舟の屋敷へ向かった。

しかし、そこで、逆に海舟に「世界の情勢は攘夷などと行っている場合ではなく、海軍を起こし、航海貿易により、富国強兵して、外国と戦わねばならない」と順々と説かれ、龍馬は自分の単純な攘夷論を恥じ、その場で海舟に弟子入りをしたという。
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三分坂

 

三分坂

急坂なので上るために車賃を余分に銀三分(現在の百円あまり)払わなければならなかったため、この名前が付きました。この坂は傾斜が急な上にカーブが二つもあり、交通量も多いにもかかわらず交通事故はほとんどないとのこと。坂の上り口には江戸時代後期に活躍した力士、雷電為右衛門の墓のある報土寺があります。 

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元氷川坂

 

元氷川坂

坂の途中の東側に本氷川明神があった。明治16年氷川神社に合祀された。氷川坂のうらにあたり、坂の下には江戸末期、勝海舟の屋敷があり、ここに住んでいる時に、咸臨丸の艦長としてアメリカへ渡りました。


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ダルマ宰相 高橋是清 その2

 「赤坂物語」著者 河端淑子

その1よりの続き

是清は安政元年(一八五四年)に幕府の御同胞頭支配絵師の子に生まれたが、故あって芝の仙台藩中屋敷に住む足軽・高橋是忠の養子となった。幼名を和喜次といい、生母との縁が薄かったせいか、生来の利発と陽気に独特の人なつこさが加わり、周囲の人に可愛いがられたという。とりわけ、養祖母の高橋喜代子は実の孫のように可愛がり、口ぐせのように「お前は足軽のままに終わってはいけない」と言って学問に力を入れさせた。

やがて、是清は幼いながら寺小姓をつとめ、元治元年(一八六四年)十歳の時に仙台藩の藩費で横浜の英学塾に入学、それから、三年後の慶応三年(一八六七 年)七月には米国留学生としてアメリカに旅立った。足軽の子としては異例の抜擢であったが、船旅は船賃五ドルの下等船室で、大部屋の臭気と食べ物には堪え がたいものがあったという。
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